生と死 [思い出]
スポンサード リンク
キュ〜くんが産まれてあっという間に2ヶ月以上が経ちました。
5.6kgに増えた体重と丸々とした顔つきは、
もうしっかりこの世の者として定着したような安心感があります。
新生児の頃の夢見るような、夢から覚めたような儚い表情はもうありません。(笑)
ちょっと寂しい・・・・
赤ちゃんが産まれると、おのずと自分の来し方行く末や祖先の人々に考えが至ります。
ああ、こうやって人が人を産み続けて、今「自分」という意識が存在している・・・。
私の、亡くなった祖母は曾祖母の一粒種であり、忘れ形見でした。
曾祖母は最初のお産後の肥立ちが悪かったらしく、婚家へ帰ることなく、
産後26日目に里帰りした実家で亡くなったのでした。
今にして思えば感染症か何かを起こしたのかもしれません。
亡骸はお葬式のために鹿児島本線を玉名から熊本まで、貸し切りの汽車で移送されたそうです。
祖母が言うには「本当なら、お母さんを亡くして
お乳をもらえなくなったあたしも死んでたはずだけど、
運よく乳母が見つかってかわいがって育ててもらえたったい。」だそうで、
祖母はその乳母の方を「ばあどん」と呼んで、終生慕っていました。
お母さん代わりだったのかもしれません。
私の母や母の兄弟たちも「ばあどん、ばあどん」といって、家族同然だったようです。
住み込みで乳母を雇えるのは経済的に少々恵まれていたお陰だったかと思います。
そうでない赤ちゃんはどんどん死んでいた時代です。
(では、「ばあどん」ご自身の赤ちゃんは・・・産後すぐに亡くなったのかもしれません。だとしたら悲しいことです。が明治時代の乳児死亡率は1000人につき150人。文字通り赤ちゃんの命ははかないものだったのですね。ちなみに当時の妊婦死亡率はお産250件に一人。600件に一人。文字通り命がけだったのですね。現在はそれぞれ1,000人に一人(乳児)、15,000件に一人(妊婦)です。)
その後、祖母は5人の子どもを産みました。
その4番目が私の母です。(だから、母の「妹根性」は筋金入りです。
私の「長女魂」とは波長が合わない部分が結構あります。まあ、いいでしょう。)
5人中存命なのは2人だけ、母と弟のみです。
2人は成人してからですが、夭逝しました。事故と病気でした。
このお二人は子どもは残しませんでした。
祖母にしてみれば、どんなに悲しかったことでしょう。
子煩悩な、愛情深い女性でしたから。
自分が子どもを持ってみてはじめて、その耐え難さが、命の重さが分かる気がしました。
母の姉が亡くなった一週間後に私が産まれましたので、
祖母は東京でお葬式をして、福岡の娘の元にトンボ帰りでした。
40年近く前、夜行列車の時代ですから、おそらくきつかったと思います。
「あの時は目がまわるように忙しくて、亡くなったことを悲しむ余裕もなかった」
と後々語っていました。
私は、母の姉と入れ違いのようにしてこの世に産まれてきたので、
祖母としては思い入れの深い孫だったのだと思います。
おかげでたくさんかわいがってもらえ、
私の「心」はこの祖母に作ってもらった、という気がしています。
5才の魂、百まで、です。(笑)
母の長兄は最近亡くなりました。
親より先には死ななかったことはこの叔父貴のせめてもの親孝行です。
Luxelもギャオとキュ〜くんの寝顔を見ながらこっそりとお願いします。
「長生きしてね。せめて私より長く、ね。」
私はこの祖母と5才くらいまで同居していて、
祖母の寝物語に一族の来し方を聞いていたものです。
別居になった後もちょくちょく一ヶ月ほど泊まりにくる祖母の寝物語は続きました。
その話は「ご一新前夜」(=明治維新)あたりから始まっていました。
私も大部分は忘れてしまいましたが、戦争中のエピソードは割と覚えています。
灯火管制の元、暗い部屋で工学屋の祖父が「日本がアメリカに勝てる訳がない」とつぶやいていたこと。祖父は航空技術屋で、英語の技術論文に目をとおしていたそうですから、その技術力の差はよく分かっていたのでしょう。祖父は結核の既往があったので徴兵は免れ、そのかわりの奉仕という感じで大政翼賛会の町内会長のような役目を引き受けていたこと、などです。(もちろん、「日本は負ける」なとどは絶対に人前では言いませんでした。)
親戚の中には息子を戦争に奪われたおばあさんも居て、戦死通知も来ず、ひたすら帰りを待ち続けていたそうです。でも戦後何年かたって、息子の艦に乗船していた僚友が何人か尋ねて来られて、息子さんの最期の様子をおばあさんに語った、とのことでした。
私も子どもを持つ身になって初めて、「子を喪う」痛みというものが肌感覚として分かる気がしました。
今の私には祖母が感じていたものが、話を聞いた当時よりよく分かる気がするのです。
ですから、
政治を見張り続け、政治家や官僚どもがミョーなことを始めないように監視するのも、
将来の関東大震災に備えて家具を固定するのも、
今度のインフルエンザ対策にマスクを買い込みワクチンに走るのも、
みんな私の仕事です。子どもの命を守るため、です。
こういう「守る術」に関しては、私の母が熱心で、母は日本で狂牛病が流行る何年も前、「狂牛病は英国の病気」と世間が思っている時期からコンソメを使うのをやめていたくらいです。たぶん、「どんなことをしても、子どもの命を守るのは自分の至上命題。」と思っていたのでしょう。当の子どもである私は当時はおかまいなしに、どこの牛肉が入っているか分からない○クドナルドなんかを平気で食べていたのですから、親の心子知らず、なんですが・・・f(^ ^;)
でも、そういうのって、このブログを読んでくださるお母さん方が
必死に子どものアトピーを治そうとなさっているのと
根は同じなのですよね。
ということは、
子どもを持つ母親が一番、この国の行く末を考えているのかもしれない、と思います。
政治家でも、官僚でもなく、です。
子どもが小さいうちは忙しくて新聞に目を通す時間もままなりませんが、
それでも出来る限り知恵を働かせ、子どもたちに幸せな未来を残してやれるように、
これからも一票を握りしめて投票所に通うつもりです。
そして、祖母の寝物語は私がギャオやキュ〜くんに伝えていこうと思います。
親というものは、遺伝子を伝えるだけではないのです。
人々の記憶もまた伝えていける。
その伝える相手がいる、という幸せをしみじみと感じている昨今です。
(追記)
Luxelパパは、たぶんお義母さんから聞いているはずですが
ナゼか、自分の親戚についてさ〜っぱり知りません。(内祝いを送るのに困ったゾ。)
私の父も親戚付き合いにはたいへん疎いので、男の人というのは得てしてそういうものかもしれません。
女の方が「血のつながり」を濃密に感じるのでしょうか。
なにしろ子どもと母親は「血のつながり」「乳(ち)のつながり」ですから・・・
小さい頃は母子密着と言われても、ある程度仕方ない気がします。(^ ^;)
でも今は、ギャオ曰く「パパが一番好きー!! ママは普通に好き。」だそう・・・
ママは悲しい・・・くすん。
キュ〜くんが産まれてあっという間に2ヶ月以上が経ちました。
5.6kgに増えた体重と丸々とした顔つきは、
もうしっかりこの世の者として定着したような安心感があります。
新生児の頃の夢見るような、夢から覚めたような儚い表情はもうありません。(笑)
ちょっと寂しい・・・・
赤ちゃんが産まれると、おのずと自分の来し方行く末や祖先の人々に考えが至ります。
ああ、こうやって人が人を産み続けて、今「自分」という意識が存在している・・・。
私の、亡くなった祖母は曾祖母の一粒種であり、忘れ形見でした。
曾祖母は最初のお産後の肥立ちが悪かったらしく、婚家へ帰ることなく、
産後26日目に里帰りした実家で亡くなったのでした。
今にして思えば感染症か何かを起こしたのかもしれません。
亡骸はお葬式のために鹿児島本線を玉名から熊本まで、貸し切りの汽車で移送されたそうです。
祖母が言うには「本当なら、お母さんを亡くして
お乳をもらえなくなったあたしも死んでたはずだけど、
運よく乳母が見つかってかわいがって育ててもらえたったい。」だそうで、
祖母はその乳母の方を「ばあどん」と呼んで、終生慕っていました。
お母さん代わりだったのかもしれません。
私の母や母の兄弟たちも「ばあどん、ばあどん」といって、家族同然だったようです。
住み込みで乳母を雇えるのは経済的に少々恵まれていたお陰だったかと思います。
そうでない赤ちゃんはどんどん死んでいた時代です。
(では、「ばあどん」ご自身の赤ちゃんは・・・産後すぐに亡くなったのかもしれません。だとしたら悲しいことです。が明治時代の乳児死亡率は1000人につき150人。文字通り赤ちゃんの命ははかないものだったのですね。ちなみに当時の妊婦死亡率はお産250件に一人。600件に一人。文字通り命がけだったのですね。現在はそれぞれ1,000人に一人(乳児)、15,000件に一人(妊婦)です。)
その後、祖母は5人の子どもを産みました。
その4番目が私の母です。(だから、母の「妹根性」は筋金入りです。
私の「長女魂」とは波長が合わない部分が結構あります。まあ、いいでしょう。)
5人中存命なのは2人だけ、母と弟のみです。
2人は成人してからですが、夭逝しました。事故と病気でした。
このお二人は子どもは残しませんでした。
祖母にしてみれば、どんなに悲しかったことでしょう。
子煩悩な、愛情深い女性でしたから。
自分が子どもを持ってみてはじめて、その耐え難さが、命の重さが分かる気がしました。
母の姉が亡くなった一週間後に私が産まれましたので、
祖母は東京でお葬式をして、福岡の娘の元にトンボ帰りでした。
40年近く前、夜行列車の時代ですから、おそらくきつかったと思います。
「あの時は目がまわるように忙しくて、亡くなったことを悲しむ余裕もなかった」
と後々語っていました。
私は、母の姉と入れ違いのようにしてこの世に産まれてきたので、
祖母としては思い入れの深い孫だったのだと思います。
おかげでたくさんかわいがってもらえ、
私の「心」はこの祖母に作ってもらった、という気がしています。
5才の魂、百まで、です。(笑)
母の長兄は最近亡くなりました。
親より先には死ななかったことはこの叔父貴のせめてもの親孝行です。
Luxelもギャオとキュ〜くんの寝顔を見ながらこっそりとお願いします。
「長生きしてね。せめて私より長く、ね。」
私はこの祖母と5才くらいまで同居していて、
祖母の寝物語に一族の来し方を聞いていたものです。
別居になった後もちょくちょく一ヶ月ほど泊まりにくる祖母の寝物語は続きました。
その話は「ご一新前夜」(=明治維新)あたりから始まっていました。
私も大部分は忘れてしまいましたが、戦争中のエピソードは割と覚えています。
灯火管制の元、暗い部屋で工学屋の祖父が「日本がアメリカに勝てる訳がない」とつぶやいていたこと。祖父は航空技術屋で、英語の技術論文に目をとおしていたそうですから、その技術力の差はよく分かっていたのでしょう。祖父は結核の既往があったので徴兵は免れ、そのかわりの奉仕という感じで大政翼賛会の町内会長のような役目を引き受けていたこと、などです。(もちろん、「日本は負ける」なとどは絶対に人前では言いませんでした。)
親戚の中には息子を戦争に奪われたおばあさんも居て、戦死通知も来ず、ひたすら帰りを待ち続けていたそうです。でも戦後何年かたって、息子の艦に乗船していた僚友が何人か尋ねて来られて、息子さんの最期の様子をおばあさんに語った、とのことでした。
私も子どもを持つ身になって初めて、「子を喪う」痛みというものが肌感覚として分かる気がしました。
今の私には祖母が感じていたものが、話を聞いた当時よりよく分かる気がするのです。
ですから、
政治を見張り続け、政治家や官僚どもがミョーなことを始めないように監視するのも、
将来の関東大震災に備えて家具を固定するのも、
今度のインフルエンザ対策にマスクを買い込みワクチンに走るのも、
みんな私の仕事です。子どもの命を守るため、です。
こういう「守る術」に関しては、私の母が熱心で、母は日本で狂牛病が流行る何年も前、「狂牛病は英国の病気」と世間が思っている時期からコンソメを使うのをやめていたくらいです。たぶん、「どんなことをしても、子どもの命を守るのは自分の至上命題。」と思っていたのでしょう。当の子どもである私は当時はおかまいなしに、どこの牛肉が入っているか分からない○クドナルドなんかを平気で食べていたのですから、親の心子知らず、なんですが・・・f(^ ^;)
でも、そういうのって、このブログを読んでくださるお母さん方が
必死に子どものアトピーを治そうとなさっているのと
根は同じなのですよね。
ということは、
子どもを持つ母親が一番、この国の行く末を考えているのかもしれない、と思います。
政治家でも、官僚でもなく、です。
子どもが小さいうちは忙しくて新聞に目を通す時間もままなりませんが、
それでも出来る限り知恵を働かせ、子どもたちに幸せな未来を残してやれるように、
これからも一票を握りしめて投票所に通うつもりです。
そして、祖母の寝物語は私がギャオやキュ〜くんに伝えていこうと思います。
親というものは、遺伝子を伝えるだけではないのです。
人々の記憶もまた伝えていける。
その伝える相手がいる、という幸せをしみじみと感じている昨今です。
(追記)
Luxelパパは、たぶんお義母さんから聞いているはずですが
ナゼか、自分の親戚についてさ〜っぱり知りません。(内祝いを送るのに困ったゾ。)
私の父も親戚付き合いにはたいへん疎いので、男の人というのは得てしてそういうものかもしれません。
女の方が「血のつながり」を濃密に感じるのでしょうか。
なにしろ子どもと母親は「血のつながり」「乳(ち)のつながり」ですから・・・
小さい頃は母子密着と言われても、ある程度仕方ない気がします。(^ ^;)
でも今は、ギャオ曰く「パパが一番好きー!! ママは普通に好き。」だそう・・・
ママは悲しい・・・くすん。
コメント 0